JFA公式ツイッターアカウントより画像引用
日本サッカー協会ができて100周年となりました。ワールドカップ優勝への道はまだまだ厳しいものがありますが、いつかきっと叶えてくれる。そう思えるような日本サッカーの歴史を築いてくれた日本人サッカー選手を5人ご紹介させていただきます。
新しい歴史を築いた日本人サッカー選手5選【レジェンド・オブ・レジェンド】
- 新しい歴史を築いた日本人サッカー選手5選【レジェンド・オブ・レジェンド】
- 1人目:松永行(まつながあきら)
- 2人目:釜本邦茂(かまもとくにしげ)
- 3人目:奥寺康彦(おくでらやすひこ)
- 4人目:三浦知良(みうらかずよし)
- 5人目:中田英寿(なかたひでとし)
1人目:松永行(まつながあきら)
日本サッカーが初めて世界を驚かせた試合が1936年に行われたベルリンオリンピックでの強豪スウェーデンからの逆転勝利した「ベルリンの奇跡」と言われる試合です。そんな試合で後半40分に逆転ゴールを奪ったのが右ウイングとして出場していた「松永行」さんでした。
当時のスウェーデンは今でいうスペインやドイツのような世界有数の強豪国でした。そんなチームを相手にまだワールドカップはおろか、オリンピックのサッカーに初参戦という日本代表がまさかの逆転勝利を収めたのです。
前半に0-2とされてからの後半での3-2の勝利に当時の試合を観ていた観客は興奮のあまりに試合終了のピッチに雪崩れ込んできて、選手たちを祝福してくれたそうです。
そんな大事な試合で逆転ゴールを決めた松永さんは日本サッカーの世界への第一歩を踏んでくれたとみて良いと思っています。
松永さんはその後、1943年にガダルカナル島で戦死をしてしまいますが、当時着用していた日本代表のユニフォームは日本サッカーミュージアムで現存する日本最古の代表ユニフォームとして展示されているそうです。
2人目:釜本邦茂(かまもとくにしげ)
日本サッカー通ならご存じの方も多いと思いますが、2人目として現サッカー日本代表の最多ゴール保持者である「釜本邦茂」さんをご紹介したいと思います。
釜本さんは日本代表で75得点を記録し歴代1位の得点数を保持しており、日本史上最も偉大なストライカーと言われることが多いです。1976年のメキシコオリンピックでは日本初の銅メダルを獲得すると同時に7得点を決めてオリンピック初のアジア人得点王となりました。
強靭なフィジカルと右足から放たれる強烈なシュートで得点を量産。そのレベルは当時のサッカー界でもワールドレベルでして、有名クラブからも誘いがあったようですが病にかかってしまいとん挫してしまいました。
とはいえ、釜本選手の偉大さは当時の世界選抜に選ばれたりするレベルでして、引退試合にはあのブラジルのサッカーの神様であるペレが参加するなどから察するにすごい選手だったことがわかります。
3人目:奥寺康彦(おくでらやすひこ)
「東洋のコンピュータ」と呼ばれ、ドイツブンデスリーガという海外の強豪リーグで活躍した初めての日本人選手「奥寺康彦」さん。UEFAチャンピオンズカップ(今のUEFAチャンピオンズリーグ)にも出場し、主力としてゴールを決めたりと貢献。元日本代表の長谷部誠選手が抜くまでブンデスリーガの日本人最多出場記録を保持しておりました。
日本代表としての活躍は当時の交通の便の関係で海外の選手が今見たいに試合ごとに戻ってくることが難しかったために脂ののった時期での出場はありませんでした。
FIFAオールスターにも選出されてジーコとも共にプレイするなど釜本選手に次いで世界をまたにかけた活躍をした名ウインガーでした。
4人目:三浦知良(みうらかずよし)
4人目は説明不要でしょう。現在も50歳を超えて現役を貫くレジェンド「キングカズ」こと「三浦知良」選手です。
ブラジルでプロ契約し、プロデビューを果たすと、93年に開幕したJリーグを機に日本復帰し長きにわたり日本代表のスターとして躍動。98年のワールドカップでは日本代表のワールドカップ初出場に貢献しながらも最後の最後に落選。これが現役を貫いている一つの理由とも言われています。
93年のJリーグ初年度にMVPを獲得し、日本中のヒーローとなりました。しかし、カズ選手の挑戦は続き、チームからの引き留めを断って当時世界最高峰と言われたイタリアセリエAへ挑戦。ジェノアに所属し1年間プレーをしました。
当時、Jリーグも結構な高年俸だったと思いますが、夢を追いかけて世界に飛び出した姿に、その後世界で活躍する多くの日本人プレイヤーに強い影響を与えました。
5人目:中田英寿(なかたひでとし)
最後に紹介するのは、海外で日本人サッカー選手の地位を押し上げたと言われている「中田英寿」さんです。
98年のワールドカップに参加後、イタリアセリエAに所属するペルージャに移籍。そこで強豪ユヴェントスからゴールを決めるなど活躍し、翌シーズン途中には強豪ASローマに移籍しました。
2000-2001シーズンにはASローマで日本人初のセリエA優勝を経験。世界選抜にも選ばれたりなど、世界のサッカー界でも有名になっていきました。いまだに日本人選手の中で最も偉大で有名な選手の一人とも言われています。
強靭なフィジカルと鋭いスルーパスはキラーパスと呼ばれ、対戦相手を恐れさせました。ここぞという時の大舞台で活躍する姿もすごかったですね。
日本代表でも2002年のワールドカップでは史上初のベスト16へ導く活躍をしましたが、2006年ドイツワールドカップ敗退後にサッカー選手の引退を発表。この時はまだ29歳という若さでした。